「一昼夜の恐怖に耐えて・・・」(13分31秒)
昭和13年、呉海軍工廠の製鋼部に勤めていた証言者は、日中戦争の勃発により臨時召集され、広島の歩兵聯隊に入営。直ちに北京の独立混成第3旅団第7大隊第2中隊に編入されました。15年8月、中国山西省で八路軍との銃撃戦で左脚を受傷し、沢へ転落。気がついたときは、戦場に一人取り残され、翌日の夕方、戦友に発見されるまで恐怖の一夜を過ごしました。すぐに野戦病院へ運ばれて治療を受け、傷が治ると骨折患者が集められていた北京第二陸軍病院に転院。錘の重さで引っ張り、骨折した部分を定位置に戻して接合するという鋼線治療を3か月続けた後、内地還送となりました。リハビリのため宮城県の陸軍病院に転院し、必死に膝を曲げる訓練を受けました。正座はできないまでも、ようやくあぐらがかけるまでに回復し、退院。16年に呉海軍工廠に復職し、19年に結婚します。その時、正座していないことを非難する心ない囁きを耳にし、この何気ない一言に心を痛めます。20年8月、出張した広島で被爆してしまいます。戦後、あぐらしかかけないため公の場には参加せず、全て妻に代理出席してもらうこととなりました。
【体験記】
南郷清「あぐらをかいた新郎」
『戦傷病克服体験記録』385頁
「小学校を出て先生に・・・」(15分28秒)
父親に内緒で試験を受けた証言者は、17歳で大竹海兵団に入団。横須賀海軍砲術学校で訓練を受け、機銃手として救難船「二神」に配属されました。南方へ出征し、トラック諸島の夏島に到着。昭和19年2月18日未明、巡洋艦沈没の報告で曳航命令を受けるも確認できず帰還する途中、グラマンの機銃掃射を受けました。見張り台から下りるハシゴに手をかけた瞬間、左肘・右下大腿部を受傷。トラック島の第四海軍病院に搬送された時、止血したままの左腕は壊疽となり切断手術を受けました。最初に苦労したのが、体のバランスを取ることでした。3月に帰国して呉そして別府の海軍病院へと転院したのち、義手の装着訓練のため東京の海軍軍医学校第二附属病院に転院。ここで、主計大尉から教員の道に進むよう助言されたうえ、必要な手続きまで受けたことが転機となりました。20年3月、島根の傷痍軍人の教員養成所に入所して研修に励み、終戦により繰上修了します。山口県の小学校で片腕のハンディを乗り越えながら教壇に立ちました。その時、義手が子供に当たって怪我をさせてはいけないと思いはずします。そうした気遣いをしながら、終始一貫してへき地教育に尽力しました。ついには校長に昇格することができ、いままで尽くしてくれた妻への最大の贈り物になったと語ります。
【体験記】
藤谷民男「妻に感謝」
『戦傷病克服体験記録』401頁
藤谷芳江「自分が選んだ唯一の道」
『戦傷病克服体験記録』406頁