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「シベリア抑留、そして結核・・・それを支えた妻」(16分11秒)

 関東軍経理部693部隊の軍属として満洲で働いていた証言者は、昭和19年に結婚し、翌年に臨時召集されたまま終戦を迎えます。その後はシベリアのレチホフカへ抑留され、収容先で肺結核を発症しました。3年4か月の抑留生活に耐え復員したものの結核が悪化し、国立松山病院へ入院。ここで先に帰国していた奥さんと再会します。しかし、そこには結婚翌年に生まれたはずの子供がいないことから、北朝鮮の平壌で病死したことを知ります。完治しない病気のため、ある程度快方に向かうと退院。シベリア帰りということもあって、職には恵まれまれなかったのですが、なんとか知人の紹介で建設会社へ入社します。しかし、体調が悪化して10か月しか働けませんでした。ついには広島市民病院で左肺を切除します。手術は成功しましたが、その後も入退院を繰り返しました。奥さんは新たに恵まれた二人の子供を育てながら洋裁学校へ通い、洋裁店を開いて生活を支えました。



帰国に使った背負い袋

「四肢を火傷・・・、二度と操縦桿を握れなかった」(14分19秒)

 志願して少年飛行兵となった証言者は、大刀洗陸軍飛行学校を卒業後、満洲ハイラルの飛行第24戦隊に転属します。部隊の移動に伴い陸軍一式戦闘機「隼」の搭乗員としてスマトラのパレンバン、そして台湾へ転進。沖縄戦が始まった昭和20年4月、宮古島で待機中、台湾へ戻るため九九式双発軽爆撃機に同乗しました。制空権がないため、まだ暗闇のうえ霧も発生しているなかでの強行離陸の最中、不完全な舗装のため滑走路から外れ炎上。火だるまと化した爆撃機からかろうじて最後に脱出したものの、顔・両手・両足に大火傷を負いました。宮古島の野戦病院で1か月あまり過ごしたのち、台北の北投航空病院へ入院し治療を受けている時に肋骨カリエスを発症し手術。半年あまりの闘病生活中に終戦を迎え、翌年3月に復員しました。23年に結婚。顔の火傷は、引っ張ることにより皮膚が伸びたため自然と目立たなくなりましたが、左手小指は手の平にくっついたままのため挨拶しづらく、人前に出るのが好きではありません。それでも、志願した戦闘機乗りとなれたので未練はないそうです。



当時、身につけていた千人針の腹袋

「三回の入院を乗り越えて」(13分49秒)

 昭和18年、証言者は鹿児島高等農林学校に在学中、半年繰上げで卒業し、教職につきました。それもつかの間、中国の宜昌に送られ初年兵教育を受け、幹部候補生として南京の予備士官学校である金陵部隊に入隊。19年7月、炎天下のもと短期集中の実戦配備で行ったところ30人が倒れました。このうち意識不明の2名がえつ病(熱射病)で入院、そのうちの1人が証言者で、もう1人は死亡しました。復帰後、今度は下痢で栄養失調となり2度目の入院をしながらも、予備士官学校を卒業。見習士官を経て小隊長となり、20年7月荷物輸送業務に従事中、敵の待ち伏せ攻撃で背面から撃たれました。終戦間近という逼迫した状況下、銃弾を心臓近くに残したまま原隊復帰し、21年に復員。郷里広島に戻ったのち教師に復職します。54年、痛みが走ってきたことから診断してもらった結果、心臓近くにあった弾が左肩の方へ移動してきたことが原因であることがわかり、摘出してもらいました。今もその摘出弾を大事に保存し、3回もの命拾いの体験を生かした指導をしてきました。



42年間、体内にあった銃弾

 

 

 

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2007年