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 7月23日(水)から9月15日(月)まで、夏の企画展「義肢に血が通うまで」を開催中です。
 本企画展では、137年前の西南戦争までさかのぼり、日清戦争、日露戦争~と、各戦役で支給された義手・義足と、戦傷病者の労苦を紹介します。
 明治10(1877)年の西南戦争では、手足を切断された兵士に対して「生まれた時に近い姿で返してやりたい」と、オランダから輸入した義手・義足を支給しました。この時点での義手は、人型をしていても機能を持たない装飾義手と呼ばれるものでした。
 明治27~28(1894~95)年の日清戦争では、昭憲皇后陛下の「こと軍事に関しては、軍人である無しにかかわらず、敵も味方も区別なく、人工手足を」とのお言葉によって、恩賜の義肢の下賜が始まりました。
 10年後の日露戦争では、近代兵器の発達によって激増した戦傷者のために、廃兵院や盲学校などの制度の拡充が行われました。
 特に、陸軍大将乃木希典によって、両手を無くした負傷兵のために、自分で物をつかめる「作業用能動義手」が考案されますが、対象者が少ないため、製作数も僅かで、医学的な評価もされないままとなってしまいました。
 その後、大正10(1920)年に行われた追跡調査によって、恩賜の義肢の使用率が僅か16%に過ぎないことが判明します。義足の使用率は高いのですが、義手に関しては残った腕で日常生活に事足りることから、恩賜の義手は神棚に祀られている例が多かったのです。
 この事態を憂慮した陸軍は陸軍軍医学校内に研究部門を設けて、日常生活や各種職業で実際に使用出来る作業用義手の製作に着手します。装飾義手の恩賜の義手が下賜される他に、作業用義手も支給されたのです。
 昭和期には、民間に委託せず、恩賜の義肢は全て陸軍衛生材料廠で製作されることになりました。
 特に昭和15(1940)年の研究命題では装飾用義手と作業用義手の両方の特性を具備した全く新しい義手の開発が始まります。これは、装飾義手の手首を回すと手の部分が外れて、中から作業用義手が現れるという仕組みで完成して、実際に新しい恩賜の義手として下賜されています。
 これらの義肢を装着して、相模原の臨時東京第三陸軍病院でリハビリテーションと職業訓練が行われました。温浴、ストレッチマシーン、紫外線治療、超音波治療など、当時の最先端医療が施されたのです。職業も、本人の希望と症状、義肢の特性に応じて、あらゆる職業が選択でき、訓練が行われました。
 松葉杖は取り上げられ、義肢は寝る時以外は外しません。それこそ血の滲むような訓練を終了する頃には、義肢に止まったハエを感じるほどになったといいます。ラジオ体操第二ができることが退院の条件だったそうです。
 社会復帰までの道のりは、まさに「義肢に血が通うまで」だったのです。

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2014年