平成27年度に収録した関東(東京、千葉、埼玉、茨城)・沖縄の証言映像を1階の情報検索コーナーにおいて閲覧することができますので、ぜひご覧ください。
関東編
千葉県
あらすじ
南方の戦闘で顔面負傷。千葉陸軍病院で義眼・義歯を挿入(歯は奥歯のみ)。昭和21年退院。視力回復せず就職しても手伝い程度。昭和22年、姉の紹介で結婚。昭和27年春、左官業に戻るが、視力不足のため壁の下塗程度。田畑は全て妻が全作業をこなした。77歳で他界。最後までてんかんと頭痛に苦しめられ、何度も自殺を図った。
「不自由さを胸に秘めて」18分29秒
眉間から右耳下にかけて貫通銃創。右眼は明暗のみ、右耳は聞こえない状態。右眼は7~8年前に失明。
あらすじ
昭和14年、国鉄に勤務。陸軍へ入営。昭和20年、中国湖南省の戦闘にて受傷のため、銃を撃つことはできなかった。その翌月に終戦。上海で武装解除。昭和21年3月、博多から実家へ帰った。国鉄に復職。昭和25年親戚の紹介で結婚。右眼・右耳のことと傷痍軍人であることを隠して結婚。
茨城県
「開墾・切り開いた人生 ~小学校教員から軍人の妻へ~」19分23秒
右腕を負傷。右腕負傷の後遺症(右腕の完全な屈伸不能と痺れ)。
あらすじ
昭和18年ニューギニアにて米軍の艦砲射撃で負傷。内地還送となり宮崎県都城で現場復帰。落下傘部隊の訓練を受けて沖縄に向かう時に終戦。結婚後、「終生夫に従うこと」と有無を言わせない厳格な夫。93歳で右足首に悪性腫瘍ができて切断。義足を装着。装具士に90歳以上では初めてだといわれた。戦争については一切言いたがらなかった。
あらすじ
昭和12年 関東軍として北支事変に参加。従軍中、胸部疾患となり内地還送。除隊後、内原の満蒙開拓団で訓練を受ける。昭和17年に結婚。満州で開拓団として従事。昭和20年奉天で再召集、終戦。昭和21年に夫婦で引揚。現在地を鍬一つで開拓。昭和40年代に恩給請求。恩給のおかげで生活も楽になった。
埼玉県
あらすじ
昭和18年満蒙開拓の内原訓練所に入所。満洲の戦闘訓練で凍傷となる。茨城県で入院中に終戦。恩給申請で父に背負われて区役所へ行くも罵倒され断念。家業のクリーニング店を経営。両足義足を隠して運転免許取得。昭和43年「夫の足になりたい」と結婚。製造会社に就職。業務用エレベーターが頭上に落下。重傷を負い退職。入院した病院で恩給請求により認定される。
東京都
「兄嫁と結婚してつかんだ幸せ」19分28秒
右大腿部盲管銃創。戦後、自ら傷口の治療時、親指の爪大の破片が2個摘出。
あらすじ
昭和20年米軍との銃撃で負傷。米兵に救助され野戦病院に収容。傷口から膿と血が出るため、毎日ガーゼを交換。昭和26年結婚。妻は戦死した兄の嫁。妻が営んだせんべい屋を手伝った。昭和40年恩給申請したが、外地に行った記録がないため恩給対象とならなかった。外の人にアメリカ大使館で調べてもらい、野戦病院にいた事実が証明され傷痍軍人に認定。
沖縄編
今回の沖縄編では全員が昭和20年4月、沖縄戦で負傷しています。また、受傷した時の年齢が低いことも特徴です。
左脚の負傷に耐えて ~女手一つで育て上げた9人の子ども~」18分53秒
*受傷時20歳。左脚を負傷。米軍の野戦病院で足の切断を拒否。夫の没後、子育てに奮闘。
あらすじ
八重岳にいる陸軍兵士の昼食を作りに行った時、米軍上陸。逃避行を始めた数日後、銃撃され左脚を負傷。山中の小屋に運ばれ、破傷風を発症。幸運にも父に救出。米軍の野戦病院で足を切断されそうになったが拒否。回復後、痛みをこらえて避難所で畑仕事をした。結婚して9人の子供に恵まれるも夫は早世。女手一つで子供たちを育てた。
あらすじ
ご本人は家族と壕に避難したが、日本兵に追い出される。摩文仁のガマに逃れ、水汲みに行くと近くに弾が落ち、受傷。周囲は死体ばかりだった。米軍に投降し収容所で治療を受け、食堂でウェイトレスとして働く。村に帰って結婚。夫の秀雄さんは義勇隊員として弾運び中に米軍の銃撃と爆撃に遭い、左耳が聞こえなかった。結婚後にそれを知ったが特に驚かず、このくらいは軽い方だと語る。
あらすじ
避難中に山中で機銃掃射を受け受傷し米軍の野戦病院に入院。戦後、高校から英語学校に進学し、琉球政府労働局に就職。数年後、米軍の機関に転職し、人事関係の部署のトップになる。昭和39年、米留制度を利用してハワイの大学へ。沖縄県傷痍軍人会の最後の会長も務めた。
「家族を崩壊させた戦争を乗り越えて」29分56秒
*受傷時7歳。右脚を負傷し切断。戦後は松葉杖で妹を育てながら気丈に生き抜く
あらすじ
米軍の銃撃を受け、母は即死、妹と共に負傷。野戦病院で右脚を切断される。戦後、祖父母と暮らした後、ハワイの収容所から帰った父に引き取られる。父は母を失い酒に溺れるも再婚。義母は子供を学校に行かせず働かせた。妹と二人で家を出る。松葉杖一本で働き、妹に中学校を卒業させ、更生指導所で洋裁を学ぶ。そこで出会った靴職人の夫と靴屋兼洋裁店を開く。その後、夫は他界するも、気丈に自立していく。
「残された思いを越えて ~家族へのわだかまり、そして許し~」20分16秒
*受傷時13歳。銃弾が貫通した脚の後遺症に悩みながらも50代で大学へ進学。
あらすじ
昭和16年、家族は大阪に移動し、長男として祖父母と共に沖縄に残された。負傷して米軍の野戦病院で治療を受ける。昭和22年になって母や兄弟と再会。米軍の運転手として働き結婚。50代で勉強を再開し、受傷のため学校に通えなかった大学を卒業できたことで、家族や進学した同級生へのわだかまりは消えた。