今回、証言映像を収録した立花誠一郎さんから寄贈された「トランク」一式を紹介します。
立花誠一郎さん
昭和17年、現役兵として第7航空教育隊に入営し、中国戦線での戦闘を経て、昭和18年南方へ派遣され、ニューギニア島ウエワクに上陸しました。戦況悪化の中、オーストラリア軍の捕虜となり、オーストラリアのカウラ収容所へ移送されました。収容されて間もなく体調不良にて診察を受けたところ、イタリア軍医から発症を告げられ、韓国人の通訳から「らい病」(ハンセン病)と聞かされました。しかし、当時は「らい病」がどのようなものか全く判らないまま、炊事場から10mほど離れた場所に張られた天幕に隔離されました。
昭和20年8月5日、収容所の日本兵による脱走(カウラ事件)が起こります。立花さんは隔離されていたため、この「脱走」には加わることもなく、ただ傍観せざるを得ない状況でした。
昭和21年3月3日、日本へ復員する時も、全ての人が乗船してから一番最後に乗りました。船室ではなく荷物置き場に押し込められました。そのドアには「特殊伝染病につき立ち入り禁止」と書かれ、ショックを受けたそうです。航行5日目にはラバウルに寄港して残留兵を乗船させ、収まりきれなくなった者を荷物置き場に入れることとなったため、立花さんは甲板上のロープ部屋に移されました。広さ1畳ほどしかなく雨もあたるため、スコールの時は服が濡れないように裸になって座っていました。この時が人生の中で一番惨めであったと回想しています。
帰国後、自宅へ「戦死公報」が届いていたことが判明し、取り消し手続きを取りました。その間、ハンセン病であることを地元の人に知られそうになり邑久光明園へ入園する際、今までを全て忘れるために本名を捨てました。バスに乗車拒否され、岡山駅まで歩いた時もあったそうです。外出できるように免許を取得しました。入園者の「失明する前に一目故郷をみたい」という女性を乗せて能登半島まで行くなど、同じ境遇の人々の足となり、いわれなき差別と闘ってきました。
展示資料
カウラ収容所に収容され、隔離生活を送るなか、こうした複雑な思いを救ったのが、ギター、マンドリンなどを作る方との出会いでした。その人は道具もない中、器用に手作りしていました。この人に刺激を受けた立花さんは、トランクを作ることを思い立ちました。その時に作ったのが、今回、寄贈されたトランクです。
炊事場の裏にあった木の箱をベースにして缶詰の蓋を鋸代わりにして裁断し、切り口をコンクリートでこすって形を整え、亡くなった人が残したナイフや靴を用いて、炊事場から入手したメリケン粉(小麦粉)を糊の代わりにし、医局にあるガーゼを刷毛代わりにするなど、様々な工夫を凝らして作られています。一見すると手作りであるとは思えないほどの出来映えです。
展示資料一覧
トランク、髭剃り、ナイフ、ベルト、靴、略帽、バッグ、スケッチブック
展示にあたり
立花さんは、今までの自分に代わり「これからはトランクが語り継いでくれる」と、トランクに希望を託されたそうです(入所施設の担当の方より)。立花さんの思いが詰まったトランクは、捕虜となりハンセン病を発症したが故の「差別との闘い」の象徴でもあります。立花さんの思いを語り継ぎ差別のない平和な世の中にしていけるように活用していきたいと思います。
【ミニ展関連図書】
『われ、決起せず』 ― 聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて ―
立花誠一郎 語り;佐田尾信作 編;柳原一德 写真 みずのわ出版 2012年
ミニ展の主人公・立花さんが、寄贈資料のトランクを作った経緯や、収容所で一緒だった仲間への思い、ハンセン病を発症して以降の隔離された生活について、語った半生の聞書き
『隔離から解放へ』 ― 邑久光明園入所者百年のあゆみ ―
邑久光明園入所者自治会 編/山陽新聞社 2009年立花さんが現在入所している「邑久光明園」の創立100周年記念誌。