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 平成26年度下半期には、愛媛の戦傷病者5名と福島の戦傷病者2名(最年少87歳、最年長95歳:収録時)を収録しました。証言映像の完成にともない証言映像の見どころを簡単にご紹介します。今後、シアターで順次、映像を公開していきます。



収録風景

 

愛媛県(5名)

「耐えて得た人生」(陸軍)19分06秒 

 昭和14年、郵便局に勤務時、陸軍補充兵で召集。湖北省咸寧県付近の戦闘で左脚関節部を貫通銃創。陸軍病院で手術を受け、内地還送されて再手術。除隊して自宅療養。粉砕骨折のため細かい骨がある影響で入退院を繰り返す。足に長期間ギブスをしていたため、足の関節が固着。郵便局へ復職中に太平洋戦争開戦。痛みをこらえて自転車で通勤するも…


「一日のことで人生が変わる」(準軍属)19分05秒

 昭和18年、17歳で白紙動員(徴用工)として日輪兵舎で軍事教育を受けた。その後、宇部の理研金属株式会社に準軍属として勤務。ジュラルミンの精製作業中、溶鉱炉のある3階から2階へ転落し膝を強打。病院で切断手術を薦められるが拒否、右脚は曲がらないまま。昭和20年、徴兵検査で丙種不合格となり挫折を味わう。昭和29年、内子町傷痍軍人会に入会するも初年兵扱いされ…


「負傷したことのハンディをバネに」(海軍)20分38秒

 昭和13年佐世保海兵団へ入団。戦艦「川内」勤務。空への憧れから海軍航空隊へ入隊。昭和16年、零戦の試験飛行中に墜落して顔面と左腕を負傷し漢口海軍病院へ入院、2か月間意識不明。内地還送され佐世保海軍病院へ入院中、太平洋戦争開戦。その後、退院し除隊。松山結核療養所の傷痍軍人の社会復帰の場として七生寮の設立に依頼され参加したが…


「戦傷の身でも川之江町へ…」(陸軍)19分51秒

 大阪の堺軍需工場に勤務。昭和16年、歩兵第六連隊に入営。昭和17年、ルソン島で米軍と戦闘中、顔面擦過傷と右上膊、腰部の砲弾破片創となる。台湾の陸軍病院に入院。 内地還送後、転院し大阪陸軍病院で除隊。堺に復職後、川之江町へ技術指導として派遣される。除隊でありながら勤務時に再召集され、召集理由が不明のまま出征直前に終戦…

「右脚一本、海で生きた軍属」(海軍 軍属)19分47秒

 昭和18年、門司海軍武官府に軍属として勤務。関門海峡を通過する船を監視し機雷掃海に従事。昭和20年7月、掃海艇で門司港を出港時、機雷に接触して轟沈。両足を負傷し陸軍に救助され小倉陸軍病院へ仮収容。岩国海軍病院に転院して損傷がひどかった左脚膝下の三分の一を切断。病院の中庭で玉音放送を聞き…

福島県(2名)

「みんなのため、人のため…(最後の日傷会長)」(陸軍)30分06秒

 昭和15年、陸軍に入営。中国へ派遣。戦闘により昭和17年に左脚大腿部を盲管銃創、昭和19年に右上膊右前膊軟部貫通銃創と2回受傷。内地還送を拒否し2回目の戦傷で切断した正中神経の縫合手術を実施。南京の支那派遣軍総司令部参謀部に転属され終戦…

 

「無いものは無い、それでもやるほかない…」(陸軍)19分25秒

 昭和18年東北電力に勤務時、徴兵検査で甲種合格。陸軍へ入営して朝鮮の羅南、台湾の高雄へ。昭和20年、高雄から屏東飛行場へ行軍中、米軍の機銃掃射で右肘を貫通銃創。高雄陸軍病院にて麻酔なしで切断手術を受ける。骨を丸く削る音が今も思い出され…

 

 

 

 

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2015年