今回、ご紹介する資料は、大島清次郎さん(故人)のご子息からご寄贈されたものです。この中から、注目されるものをご紹介します。
1.大島菊松宛合川正義書状(明治37年12月)
この資料は、清次郎さんの所属する後備歩兵第二連隊第三中隊長から両親に宛てた書状です。これによると明治37年6月、日露戦争で中国に上陸後、清次郎さんが第一線で戦っていた時の様子が記されています。敵の攻撃を前に勇敢かつ沈着なる態度は「一般軍人ノ羨望」するところでしたが、12月3日、不幸にも「右大腿軟部貫通銃創」を負い、「痛惜ノ至リ」に堪えないことを述べています。負傷したことは、「名誉アル偵察」をおこなった結果であり、軍人として敬い仰ぐべきであるとして、負傷入院したことを家族に報告したものです。
2.軍隊手牒
軍隊手牒には12月3日、孤家子(満州国奉天省)で「戦闘負傷後送」されたことが最後に記されています。その後、陸軍病院に入院に同38年9月11日まで入院していたことまでは判明していますが、その後の部分に関する資料がないため不明となっています。
3.軍人傷痍記章授与証書
「軍人傷痍記章授与証書」(昭和14年3月20日)によると、「明治三十七八年戦役奉天付近会戦ノ際右手骨折銃創ヲ受ケ一肢ノ用ヲ失」とあり、この時に授与されたことを示 す傷痍軍人証と軍人傷痍記章が支給されています。傷痍軍人証の裏面にも「明治三十七八年戦役奉天付近会戦ノ際右手骨折銃創ヲ受ケ一肢ノ用ヲ失フ」と記されています。
日露戦争の負傷でありながら、中隊長の手紙と軍人傷痍記章授与証書とでは全く記載が異なります。
ご親族のお話によりますと、銃を持つ右手を撃たれたとのことでした。足は何ともなかったということです。そうすると、中隊長の手紙が清次郎さんの負傷をいち早く家族に知らせるため、手と足を間違えて報告されたものを、そのまま記載して出されたと推測されます。
軍人傷痍記章(バッジ)は、大正2年に「軍人傷痍記章条例」として公布され、大正13年に「軍人傷痍記章令」(条例の改正)、昭和13年に「軍人傷痍記章令」(記章令の改正)が出され、これにともない軍人傷痍記章授与証書が授与されました。
4.軍人傷痍記章・傷痍軍人電車乗車券
「清次郎さんは日露戦争の負傷者として昭和14年、この証書を授与し、併せて傷痍軍人証と傷痍軍人電車乗車券(100回券)を支給されました。証書には、裏面に「軍人傷痍記章佩用中ハ必ズ本証ヲ携帯スベシ」とあります。傷痍軍人電車乗車券には、裏面に「使用上の注意」として「傷痍記章の佩用又は傷痍軍人 証の提示」がされない場合は無効となることが記されています。
昭和14年に軍人傷痍記章授与証書が授与された以降、電車に乗る時は軍人傷痍記章を付けて電車に乗っていたことが、数枚使用した形跡の残る傷痍軍人電車乗車券からもうかがえます。
(学芸課)