証言映像を収録した時、様々な地域差を感じる時があります。今回は沖縄の終戦についてみていきます。
日本の終戦は昭和20年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏文書調印が正式な「終戦」となりますが、実際は8月15日の玉音放送で終戦を知ったことにより、毎年8月15日が「終戦記念日」とされています。しかし、これは日本全国一律ではなかったのです。
昭和20年8月15日に玉音放送をほとんど聞いていなかった地域がありました。それは沖縄です。昭和20年4月1日に米軍が沖縄上陸以降、侵攻が拡大して県内全域を制圧した以降もゲリラ活動が継続していました。
沖縄は、本土の8月15日終戦、9月2日戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書調印後の9月7日に降伏文書に調印しました。4月1日に米軍上陸以降、9月7日までの間、米軍と緊張した地上戦が繰り広げられていたことになります。
沖縄の終戦直前の流れを整理してみましょう。
昭和19年10月10日
米軍による大空襲(1010空襲)で、特に飛行場と港湾施設が壊滅的な打撃を受ける。
昭和20年3月末
上陸に向けての米軍の艦砲射撃(「鉄のカーテン」と称された)
昭和20年4月1日
沖縄本土に上陸。地上戦が展開。
昭和20年9月7日
部隊の最高責任者であった能見敏郎中将(先島諸島)、高田利貞陸軍少将(奄美群島)、
加藤唯男海軍少将(奄美群島)らが降伏文書に調印。沖縄終戦。
この日は、3名の中将・少将が降伏文書調印のため沖縄本土の飛行場(現:嘉手納基地)に召還され、米軍第13軍司令官スティルウェル大佐に対し「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れて降伏文書に調印しました。この調印した場所には現在、嘉手納基地内に碑が残されています(左写真:基地内のため立ち入り禁止)。調印式を行なった様子は右側の写真となります。
下の写真は、降伏調印式で調印された文書(英文・日本文)です。すでにこの頃は、沖縄本島には日本軍部隊が壊滅状態で機能していなかったものの、ゲリラ戦で小康状態となっていたことから、すでに制圧されて捕虜となっていた先島諸島、奄美群島の日本軍司令官を呼び寄せて「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」することで、降伏文書の調印式を行いました。
同じ日本国内でありながら、終戦が全国一律ではなかったことがわかります。唯一の地上戦で、全島が戦火となった沖縄の実情が知られていない部分があります。これを機会に、沖縄の歴史の一端に触れてみてはいかがでしょうか。
(学芸課)